気まぐれ日記 05年2月
05年1月はここ
2月1日(火)「寒いぞー!・・・の風さん」
例年、1月の末から2月上旬にかけてが、この地方では最も寒い。雪が降るのもおおかたこの時期だ。昨年の終盤からしゃかりきになって動いているが、歳とともに変温動物に近付いている風さんとしては、冬がどんどん苦手になっている。しかも今朝は、風も強く、鼻の奥がむずがゆかったので、予防のため花粉症の薬も飲んでおいた。
最近、会社の昼休みにちゃんと休むようにしている。どういう意味かと言うと、ついつい席に着いていると、パソコンでメールチェックなどしてしまう。就業時間中は会議が多く、とてもゆっくりメールチェックなどできない。いきおい未読メールはたまる。常時直近3ヶ月間で2000件の未読メールを抱える、という今の状態になってしまうのだ。会社のメールチェックをやめて、執筆のための下原稿作りをすることにした。内容は、先日の嵯峨野高校での特別講義の内容である。ほとんど無念夢想で文章を打ち込んでいる。ちりも積もれば山で、2週間ほどで30枚も書けた。
帰宅時も猛烈に寒く、定例のトレーニングを断念した。
風呂でしっかり温まって、読書してから寝た。最近読むペースが早いが、今読んでいる本はちょっと時間がかかっている。
2月2日(水)「降雪で半日有休・・・の風さん」
ワイフに起されて、カーテンを開けたら、外が真っ白だった。「やった〜!」そろそろ降りそうだった雪である。雪が降ったら出勤しない、と決めていたので、喜んでまた寝た。
ミッシェルに買い替える時、それまで乗っていたクルマに、スタッドレスタイヤをつけたまま下取りに出した。当地では、降雪は年間2、3日程度しかない。それ以前のクルマもオールシーズンタイヤだったので、急な降雪でも平気で外へ出ていた。しかし、公道では、ノーマルタイヤのクルマが圧倒的に多く走っているのだ。そういったクルマがあちこちで事故を起こしたり、上り坂がのぼれずに立ち往生したりして、私のクルマの邪魔をする。そういう経験をしこたま積んできたので、なんかもう馬鹿らしくて、それならスタッドレスタイヤなんか準備せず、雪が降ったら会社を休むと決めた方がずっと気が楽、と結論していたのだ。
1時間後に目が覚めて、再びカーテンをそっと開いたら、青空が広がっていて、積もった雪が銀色に輝いていた。これなら雪はどんどん融ける。「遅れて出社します」という連絡を入れてから、いやいや起き出したが、意外や意外、気分は爽快である。十分な睡眠が疲労をとってくれたようだ。
通勤途中に歩道に乗り上げたクルマなど3台を見かけた。やはり、ゆっくり出てきて正解だったのだ。
勤務先の様子もちょっと紹介すると、遅刻や急遽有休にした社員が多く、ま、事故だけはなかったので、これで良かったのだと思った。出勤時刻は10時半過ぎだったが、午前を半日有休とすることにした。もちろん、昼休みにはちゃんと休んださ。
2月3日(木)「今日のトピックス・・・の風さん」
毎日新聞をななめ読みしている。心を動かされた記事を、たまに「今日のトピックス」として紹介しよう。鳴海風の気まぐれアンテナの向きが分かるかもしれない。
夕刊に載っていた記事だ。「元レースクィーンの井原慶子がF1の登竜門であるF3に参戦決定」という記事が目に飛び込んできた。英国F3に日本人女性が参戦するのはもちろん初めてだが、99年のレースデビュー以来、01年にフランスF3で4度の入賞、02年のマカオ・グランプリ、アジアフォーミュラ2000部門で女性初の3位と、実績も相当なもの。今期22戦にフル出場し、新人賞はもちろん、F1挑戦への足がかりを作るのが狙いらしい。日本人の国際化は昨今珍しくないが、超ど級の活躍が期待される。・・・とクールに書いているが、記事と一緒に載っている顔写真を見て、胸を高鳴らせたのが、実は本音だったりする。
2月4日(金)「迷惑メールか当然メールか・・・の風さん」
昨日は京都まで会社の仕事で出張した。途中米原のあたりから車窓は雪景色で、魂のふるさと東北へ帰った気がした。人生、年輪を重ねるということは、それだけ思い出を多く持つことであり、またそれらに遠近感や陰影を感じられるようになることだ。ちょうど老眼と同じように近くの記憶は印象が薄くなり、遠い昔の記憶ほど映像は鮮やかで、よく似た場面に遭遇すると、容易にデジャ・ビュに陥る。
まだ雪に覆われている所もあるようだが、今日も当地は比較的穏やかな陽気だった。しかし、ぼやぼやしているとあっという間に春の訪れに直面してとまどうことになる。
帰宅してメールチェックしたら、20件のメールが入っていて、そのうち18件が迷惑メールだった。ほとんど出会い系サイトの紹介で、ウィルスメールよりはマシかとも思うが、これだけわんさと入っていると、日本の将来に不安を感じる。・・・え? 私だけが狙われているって? エロじじいだから? んな馬鹿な。
2月5日(土)「今年最初のアウトプット・・・の風さん」
カーテンを開けると、どんよりした空が広がっている。今週はかなり冷え込んだが、この週末はどうなるのだろう。朝食後、戸外に設置してある石油タンクに灯油2缶を補給した。1週間で2缶消費してしまったことになる。1階のLDKは大型の石油ヒーターで暖房している。うちには他に個別の部屋が7つあり、私の書斎は石油ヒーターだが、他はエアコンである。氷河期がやってきたら、全室フル回転するだろうが、その前にブレーカーが飛んでいるか・・・(笑)。
日本推理作家協会の会報(2月号)が届いた。正月に送った「ハガキ随想」が掲載されていた。今年最初のアウトプットだと喜んだが、協会費24000円の振込み用紙が同封されていて、ややショックを受けた。昨年はろくに稼げなかったからなあ。
夕方、「数学文化」用の原稿と画像などを送った。けっこう量が多かったので、手間ひまがかかった。え? 何の手間ひまかって? もちろん執筆の!
2月6日(日)「穏やかな週末・・・の風さん」
風が吹いていてもまずまずの週末だった。
霰粒腫は依然として左目の上まぶたに宿ったまま。一方、「めまい」に襲われなくなってからもうかなりの日数が経過している。
昨日「数学文化」の原稿を送信したので、かなり精神的に余裕ができた。いよいよ小説執筆に軸足を置くことができる。小説を執筆するときの私の最大の欠点は、ついつい資料調査にはまっていき、物語が進行しなくなることだ。知人作家の多くが喫茶店やファミレスで執筆しているのも、恐らく似た落とし穴にはまらないための予防策のような気がする。とりあえず私はアシュレイを執筆マシンにすることにして、階下のサンルームにアシュレイを持ち込んだ。全体像が出来上がるまでは、こうして打ち込み中心でやっていくしかない。
午後、1週間ぶりにトレーニングに出かけた。今年通算8回目である。やや体力が低下しているので、軽く流してきた。恒例の測定結果だが、今日は、口うるさいトレーナーがいて、「BMIの値が理想的ですね」と言われた。彼女は何度もこれを言う。BMIというのは、体格指数(Body Mass Index)のことで、体重(kg)を身長(m)の自乗で割った値だ。男性の理想値は22、女性は21だそうだ(保険会社の統計で、死亡率が最も低い値だそうだ)。私はほとんど22プラスマイナス0.1程度で維持しているので、彼女が横から覗くたびにこの22という数値が見える。それで、感嘆の声を上げているらしい。体脂肪率が水分で上下変動が激しいのに比べれば、変動は少ないし、理想値を中心に動いているので、自慢できるなら、これからはBMIをここで紹介しよう。
前置きが長くなった。今日の数値は、血圧正常(129−60)、肥満度0.5%で体脂肪率が20.4%(1週間前から2%も上昇している! だから信用おけないというわけか)、BMIは22.1だった。
2月9日(水)「企画の売り込み・・・の風さん」
寒い日が続いて小休止すると、ずっと暖かく感じるようになってきた。確実に春が近付いている。春は桜の季節。学生時代から就職した後も、桜は季節の移り変わりを最も強烈に感じる。人生のわびしさに通じるのだ、私の場合。
今年はがんがん自分自身に負荷をかけることに決めたので、今日もまた、暖めていた出版の企画を某出版社に売り込んだ。和算関係の本で、鳴海風独自の内容の本になると思い、狙いやコンセプト、盛り込むアイデアを説明し、理解してもらった。1ヶ月後に正式な企画書を提出し、何とか秋までに出版を目指すことで合意した。できるだけ早くまとめ、本の構成やカバーなど、編集者とじっくり時間をかけて練り上げて行きたい。
2月10日(木)「狂気の時代か?・・・の風さん」
0(ゼロ)の日は、交通事故0を願う日で、通勤経路のそこかしこでボランティアの人が立っている。先週末は、関東地方で悲惨な事故が相次いだ。免停中の男が酒を飲んで運転し、8人はねて4人を死なせ、それでも人を轢いた記憶がないという。酒を飲んだら前後不覚になるという自分の特性を知らなかったのだろうか。運転不適格者である前に人間失格者だと思う。それから、中学生がクルマを持ち出して運転し、これまた人を轢き殺している。
そう言えば、全国ニュースにもなったが、安城市のスーパーで仮出獄中(つまりまだ保護観察中)の男が1歳にも満たない男児の頭にナイフを突き刺して殺すという、信じられない事件が起きた。実は、あの近くに10年以上前に住んでいたから、現場の土地が目に浮かぶ。犯人が逮捕されたサイクリングロードは、かつて家族で散歩したことがある。
最近、何かが狂っている気がする。狂気の時代に突入しているのではないか。
2月11日(金)「合併問題で吠える風さんの巻」
とうとう新市名の住民アンケートが決定した。
実は風さんは、合併したら奇抜な新市名になることで有名だった場所に住んでいる。
そもそも合併問題は難しい。
新市名の良し悪しで合併の是非を論じるのは、残念ながら最も低次元の議論である。
住居地域の損得で合併の是非を論じるのも、またピント外れである。なぜなら、合併問題が生じた原因は国家財政の超巨額な赤字にあるからだ。このことの責任問題をとりあえず棚上げにし、さらに合併という地方交付税の節約策の正当性・妥当性も、この際目をつぶったとする(分かってもらえるかな)。合併をすることは、やはり国家財政の赤字減らしを遅らせることになるのだ。町民である前に日本国民であることを考えれば、ここは合併を見送って地方交付税(相当のもの)を継続してもらうことを諦めるべきではないか。
しかし、もし継続してもらっていくのなら、10年経過した後に、それまでもらった額の3割を国に返すという責務に対する方策を真剣に考えなければならない。地方公共団体は営利団体ではない。会社ではないのだ。そんな組織が、たとえば10年間100億円もらって、その後の10年間で30億円返せるような超黒字団体になれると思うか。そこがポイントである。
今回の合併策の失敗点は、地方交付税なしでやっていける地方公共団体がさっさと合併から手を引いたことであろう。金持ちが手を引いて貧乏人だけが取り残されたのだ。貧乏人が何人集まっても金持ちにはなれない。合併策は、金持ち(地方交付税不要な地方公共団体)に対して、周辺の貧乏人を取り込んで合併しろと命じるべきだったと思う。
しかし、こんな自説をまくしたてようとも、そもそもの上位の問題が解決されなくては、財政赤字あるいは公共の赤字体質は国レベルから地方レベルに広がるだけで、なーんにも解決しないのだ。
2月12日(土)「うれしい!・・・の風さん」
本当に暖かくなってきて、朝目覚めると、鼻の奥がむずがゆい。気温の上昇とともに、花粉の飛散も確実に増えている。新聞のはしっこに花粉予報も出始めた。
そのように暖かくなってきたにもかかわらず、今週も灯油を2タンク、補給した。これで、3週間で6タンク(108リットル)も消費したことになる。
昨日は予想外のこと(うれしいこと)があった。図書館から借りてきた音楽CDが、ミッシェルのハードディスク装着ナビで録音できなかったのだが、いったん執筆マシンのパソコンでCDにコピーしてから、そのコピーCDをハードディスク装着ナビにセットしたら、な、なんと、録音できるばかりか、アルバムタイトル名から曲名までバッチリ自動コピーできたのである。借りてきた音楽CDのソースは古いレコード(つまりアナログ録音で半数はモノラル)だったので、それが原因してハードディスク装着ナビでは録音できないのかと推定していた。それが、まるでデジタル録音の最新CDのように録音できたので驚いた。特殊な録音コードがされていたものが、パソコンにコピーするときに汎用の録音コードに変換されたのだろうか。風さんの乏しい知識ではよく分からない。そうだ。こういうことに詳しい天宅しのぶさんに聞いてみよう。最近さっぱりメール交換もしていないし。
うれしいことは今日もあった。一関市博物館から手紙が届き、風さんが応募した「和算に挑戦」の上級問題の答案が、「優秀賞」に選ばれたのだという。一生懸命解いたのは間違いないが、小説家の応募ということで、臨時の「特別賞」でももらえれば奇跡かと思っていたのに、驚くと同時に喜びで飛び上がってしまった。3月12日(土)の表彰式には万難を排して出席するつもりだ。え? 表彰式はどこかって? そりゃ、もちろん、岩手県一関市にある同館ですよ。風さんは、セントレア(中部国際空港)から飛行機で往復する。
2月13日(日)「梅の蕾に気が付く風さんの巻」
サンルームから小さな庭を眺めていたら、梅の枝にもう蕾がぽつぽつと赤く膨らんでいるのに気がついた。
最近はだんだん先手を打てるようになってきている。夜遅くなっても、しぶとく執筆モードに入ることができる。絶好調(?)なのかもしれない。久しぶりに春を満喫できるかも。
昨日は、ウィークデーに行けなかったトレーニングに行ってきた。すぐに筋肉痛が出て喜んでいるけれども(若い証拠らしいが)、かつて自信のあった上半身はちっとも筋肉がつかない。トレーニング後の数値は、血圧は正常、肥満度が−1.1%(少し痩せた!)で、体脂肪率は20.5%(脂肪量は実質ほとんど変わらず)、BMIも21.8%と小さくなった。痩せるとBMIの数値は下がるな(当然か)。肥満度は−5%ぐらいにしたいので、そうなるとBMIは20%台になってしまう。脂肪だけ落として筋肉量を増し、肥満度は0近辺でいけば、BMIも22%程度になるのだろう。
かつて新鷹会に通い出したころは、毎月のように新作を発表し、勉強会で叩かれてへこんでいた。「大衆文芸」に掲載されなかった作品は多い。ちょっとした気まぐれで、昭和63年にボツになった短編を読み返してみた。これを手直しして、「大衆文芸」に掲載することができれば、少しは私も成長したことになる。今月はもう間に合わないので、来月、挑戦してみようと思う。好調だからできることだろう。
2月15日(火)「富岡八幡宮取材・・・の風さん」
「天気が下り坂だから傘が要るわよ」
上京すると傘を土産に帰ってくることが多い夫を、妻がこう言って送り出した。
月例の勉強会の日である。往復の車中は読書タイム。
最寄の駅から7時37分発の電車に乗って、最初の目的地、東西線「門前仲町」駅に着いたのが11時である。長時間かけて東京まで通ってきて、これでアウトプットが出なければ、他人から「バカか」と言われても仕方ない。頑張らねば。
「門前仲町」へ行ったのは、富岡八幡宮を取材するためである。昔、ここを小説の場面に使ったことがあるが、実は現地を確認していなかった。現在取り組み中の作品でも、ここを重要な場面として使う可能性があり、一度現地を見ておきたかったのだ。
1番出口から出て、すぐ浅草のような仲見世通りがあったので、(お、近いな)と思ってまっすぐ進んだ。平日にもかかわらず人出が多かった。境内や本堂、手水場などをチェックしながらデジカメにも収め、賽銭を投げてお参りも済ませた(今年の成果を祈念したのは言うまでもない)。ところが、順調と喜んでいたのも束の間、そこは深川不動だった(爆死)。
それにしても、空は抜けるような青空で、風がほとんどないので、暖かく感じるほどだった。絶好の取材日和である。
富岡八幡宮はずっと東側にあって、鳥居が見えた。ところが、そこまで歩いて行ったものの、鳥居近くにあると聞いていた伊能忠敬像がない。そのまま境内に入ると、縁日なのだろう、フリーマーケットのような賑わしさで、ここも雑踏していた。
伊能忠敬は50歳になってから、趣味の天文暦算をきわめようと江戸へ出てきた。居を構えたのが、この近く、黒江町である。現在の門前仲町。彼は、測量の旅に出るたびに、ここ富岡八幡宮にお参りしてから出発している。伊能忠敬が主人公ではないが、彼も重要な脇役なので、今回の取材が必要だったのだ。
富岡八幡宮でもお参りし、それから清澄公園を散歩してから、新宿線「森下」駅から勉強会の会場、代々木八幡を目指した。代々木八幡でもお参りしたので、1日に3度も神様にお願いしたことになる。幸福が3倍になって訪れることを期待しているし、そうなるように努力したい。
結局東京は天気が崩れることもなく、10時半ころ、雨が降る中、帰宅した。
今日は、1冊読破できたのでよかった。
2月16日(水)「ISDN解約・・・の風さん」
一日中雨が残っていた。静かだが、何となく気分も低調な一日だった。そんな夕方、ワイフからケータイ電話がかかってきて、「うちの電話がかからない」という。そうだ! 今日の午後から、ISDNの契約を解約したのだ。つまり、電話回線がデジタルからアナログというかプッシュ回線に戻るのである。その影響に違いない。しかし、まだ具体的な原因がぴんと来なかった。やがて、「ターミナルアダプターが障害になっているのだ」と気付いたのだが、自分で配線をした記憶があまりにも昔のことで思い出せない。結局、帰宅してからチェックすることにした。
一関市博物館の和算に挑戦の上級問題で、私の答案が「優秀賞」になったが、その問題を一昨日、職場の同僚に見せたところ、今日、その回答をもらってぶったまげた。スッキリしていて美しい解法だった。私のは、和算家が解いたようなやり方を現代式に展開したもので、内容的には大学の教養部相当(線形代数学で教わるアファイン変換の応用)だったが、同僚の答案は、高校の知識でありながら、実にスマートなものだった。だ円と直線が一点で接していることから、二次方程式の根の判別式を応用したものなのである。こっちの方が模範解答だと思われるし、「最優秀賞」ではないだろうか。数学の問題というのは、最後の答えはひとつでも、さまざまな解法が工夫される。昔の和算家はその解法の美しさを競ったのだし、それが、数学本来の楽しみなのである。
帰ってみて、すべて判明した。家庭内の電話へは、すべてターミナルアダプターを通して配線されていた。それらを直接モジュラーコードで接続し直して、電話の受話器を取り上げ、ためしにケータイへかけてみると、かかった(安心)。これで、来月以降、無駄な出費を抑えることができる。
2月17日(木)「いよいよの時は突然に・・・の風さん」
ちりも積もればのたとえに従って、京都府立嵯峨野高校での特別講義『和算と日本の歴史』の原稿を、今日も昼休み時間にわずかばかりワードファイルに打ち込み終わって、仕事に復帰しようとしていたとき、エリクソンが震えた。液晶画面を覗き込むと、090で始まる番号が表示されている。非通知はもちろんのこと、番号通知でもメモリ登録されていない場合は、リスク回避のため出ないのだが、このときは虫が知らせたとでも言うのだろうか、ほとんど迷うことなく応答した。が、恐る恐るの応答なので、こちらは名前は名乗らない。相手も名乗らない。聞き覚えのない声だった。二言三言やりとりがあって、兄からだとようやく分かった。
「お父ちゃんが死んだんだよ」
小説家の性かもしれないが、私の場合、子供の頃から、死というものを、日頃から意識しながら生きてきた。両親が高齢になり、それなりに我がままでひがみっぽくなるにつれて、いよいよの時のことをあれこれと想像するようになった。
最も起こりそうなことは、病に倒れ、救急車で運ばれて一命をとりとめるが、ガンなどの場合は発達した末期治療の波状攻撃、それ以外の病気でもさまざまの延命治療が繰り出され、いつしか個人の人格の尊厳はどこへやら、ただ生命体の維持だけに治療をする側も受ける側も極度に疲労する。
わたしの場合、両親とはかなり距離を隔てて暮らしている。幸か不幸か兄夫婦が近くに住んでいるので、いざという時は、彼らにかなりの負担を強いることになる。それに甘えてばかりはいられないので、私たち夫婦も、サポートに行かねばならない。いよいよの段階になったら、毎週末、どちらかあるいは二人が、新幹線か飛行機で往復することになるだろう。そのための非常予算は、郵便貯金として三桁の金額が確保してある。しかし、問題はお金だけではないだろう(先立つものはお金かもしれないが)。
毎日のように頭をよぎる「いよいよの時シミュレーション」のし過ぎか、実際のいよいよの時はあっという間に過ぎ去った。
着替えるために洗面所に入って、そこで仰向けの姿勢で眠るように死んでいたという。
毎週往診に来てくれていた医師の診断結果は「心不全」。特に重篤な病魔に襲われていたわけではない。前日まで元気だったという。
大正4年5月30日生まれ、満89歳。類まれな勤勉さが、風さんにDNAとして受け継がれている。
2月18日(金)「セントレアの葬送の列・・・の風さん」
知らせがあったとき、既に父は死んでいた。危篤というわけではないから、すぐに帰る必要もなかった。定時過ぎにようやく通夜と告別式のスケジュールが確定した。それを会社に報告してから帰宅し、深夜、インターネットで家族5人の航空便を予約した。19日が通夜、20日が家族だけの告別式いわゆる密葬というやつである。
地元の中部国際空港「セントレア」が開港した17日に父が死んだ。その日から、最寄の空港への直行便が再開していた。偶然だが、ワイフは「まるでお父さんが飛行機で帰って来なさいって言ってるみたい」と言う。その通りだ。出発前日の深夜、双発のプロペラ機フォッカー50に空席が残っていた。
開港2日目のセントレアへ、私たち家族はクルマで向かった。
来月、一関市博物館での「和算に挑戦」の表彰式に出席のため、私は空路仙台入りすることにしているが、その前のセントレア利用となった。
鈍色(にびいろ)の空がセントレアを陰鬱に覆っている。天候は下り坂だ。しかし、風はほとんどない。話題のちょうちん横丁やレンガ通りがあるスカイタウンは、実際に航空機を利用する人や出迎えの人以上に見学客が多くごった返していた。開港初日の昨日は9万人の人出だったという。
葬送の列のような人の波をかきわけて、私たち家族5人は出発ロビーへと進んで行った。
2月19日(土)「通夜の思い出・・・の風さん」
根雪ではないが、日陰になるところは雪が残っている。やはり東北地方は愛知県より寒い。寒いと完治していない霰粒腫も悪化しそうだ。
父の遺体は、父の部屋に安置されている。兄嫁が片付けてくれたのでスペースができ、焼香台が置かれていつでも手を合わせることができる。大きな遺影も準備されていた。20年近い前の、免許証用の写真を拡大したものだが、写真館で撮影したものが元になっているので、かなり鮮明だし、第一笑顔なのがいい。顔の上の白い布をめくってみると、明らかに89歳の父の顔がそこにあり、確かに写真とは違う。しかし、安らかな表情であることは間違いなく、家族として、これほどホッとすることはない。
床の間の本箱を見たら、『算聖伝』があったので、取り出してみた。読み出してすぐ「これはいい。面白い書き出しだ」と父に誉めてもらった作品である。ぱらぱらと中を確認すると、第4章から後ろを読んだ気配がない。父は、気になるところに傍線を引きながら読むくせがあるので、すぐ分かる。ここらで読むのがつらくなったのだろうか。
午前中は、狭い居間に家族が8人も集まって、ワイワイ過ごした。
父の棺桶に何を入れるか相談があり、葬儀屋が勧める物の中に、「好きな本」というのがあった。私は、すぐに『算聖伝』を思い浮かべ、提案した。
午後2時に遺体を斎場に運ぶ車がやってきた。それと一緒に、我々も斎場に向かうのである。庭から出すので、外へ出てみると、みぞれが降っていた。冷たい。
斎場はセレモニーホールといった雰囲気の建物だった。
納棺の儀式があり、係りの人の説明に従って、一つ一つこなしていったが、こんなに安らかな死を迎えることができたというのに、なぜこうも悲しくなるのだろう。子供らがすすり泣きを始め、親の感情なのだろう、子供らがいとしくなる。最後に、係りの人が、『算聖伝』を入れようとして、本を仔細に眺めながら、なんと説明していいか迷っているようだったので、「それ、私が書いた本です」と口をはさみ、「途中までしか読んでいないので、残りをあの世で読んでもらおうと思って・・・」と説明した。すると、「それでは、読んで欲しいページを開いたまま、お父さんの胸の上にのせてください」と言われた。そのとおりにしたが、急に鼻の奥がつんとなってきて、涙が溢れ出した。こらえきれず私がハンカチで目頭をおさえると、すぐに兄嫁が「お義父さん。続きを読んであげてね」と言ったので、もう涙がとまらなくなった。
夜は静かに更けていった。
私は父の遺体に一番近いところに蒲団を敷いた。夕食の時にビールを飲んで酔っ払い、それからしばらく寝てしまったので、なかなか眠くならない。父の年賀状を元にして、パソコンで住所録を作成した。父の死を伝えるハガキの宛名印刷に使うためである。その後、シャワーを浴びてきてから、蒲団に寝そべって、大好きな伊藤桂一さんの時代小説を読んだ。ときどき焼香台に新しい線香を立てたり、父の遺体の安置されている棺を眺めたりしながら。時刻は4時半近くなり、起きている者は一人もいなかったが、私は恐怖はおろか寂しさも感じなかった。家族全員がそろって一つ屋根の下に寝ているなんてことは、もしかすると初めてだったかもしれない。
2月20日(日)「骨壷いっぱいの父の人生の巻」
3時間ほど寝て起きた。昨日の午後から崩れ出した天候が、どうやら回復したらしく、外は眩しいほどに陽が注いでいた。寝不足のせいか霰粒腫の調子もあまり良くない。
一夜明けて、棺桶の窓から父の顔を眺めると、少しだけ開いていた口がかなり大きく開いていて、笑い出しそうな感じがした。家族だけに守られた通夜に父も満足していたのかもしれない。
午前11時から家族だけの告別式が始まった。曹洞宗の導師による丁寧な念仏がたっぷりと続き、ようやく我々の焼香する番がまわってきた。慣れない正座が続くと、立って歩くのがつらくなる。それでも、昨日も経験しているので、何とかなるだろうとタカをくくって、いきなり立ち上がろうとしたが、なんと今日は、足の感覚がなくなって、足首が曲がらないため、立つことすらできないという、実にみじめなザマを露呈してしまった。
棺桶に釘を打つ時がやってきた。再び花びらやお菓子などを入れた。そのとき、これが父に触れる最後になるだろうと額や頬に触れてみた。一緒に入れてあるドライアイスのせいで、とても冷たかったが、肌はまだ柔らかかった。一昨日から、遺体に対して何ら嫌悪も不快感も感じないのは、肉親だからだろうか。
霊柩車には、位牌を抱いた兄が乗った。続いてその後ろを私が運転するレンタカーが追い、最後にマイクロバスが続いて、父の遺体は火葬場を目指した。
葬送の車列は、父が住んでいた団地の横の国道を走り、父がよくクルマを運転して買い物に出かけたショッピングモールの前を抜け、父が好きだった牡丹園をかすめて行った。
火葬には1時間以上かかった。
家族8人全員が収骨室に入れてもらえた。箸を使って何度も何度もお骨をつまみあげた。
びっくりするほど太くて真っ白な骨が骨壷いっぱいになった。その圧倒的な存在感に、父の89年の人生の重みが胸に迫ってきた。
骨壷を抱いてマイクロバスに乗った兄夫婦や母と別れ、私の一家は福島空港へ直行した。
午後6時前、無事セントレアに帰ってきた。セントレアは、相変わらず見物客でごった返していた。
2月22日(火)「葬儀の余韻・・・の風さん」
葬式の翌日から会社に出勤した。あっという間に、もう日常の生活に沈没した感がある。
会社の仕事はちょっとしたヤマ場を迎えようとしている。とりあえずの葬儀を済ませて帰ってきただけなので、これからもやることはたくさんある。
昨日は、地元のお寺に電話した。そこには、生前に用意した両親のお墓がある。両親だけでなく、兄や私の家族も入れるように、広い墓地と大きな墓石が確保してある。既に、私は檀家となり、準備は整っていた。そこへ、最初に入るのが父、ということになった。老少不定(ろうしょうふじょう)とも言うが、逆縁にならなかったのだから、自然の摂理・幸福とも言える。
福島県で密葬を済ませたので、こちらで戒名をつけてもらい、納骨、四十九日の法要などをお願いしたいと伝え、およその日取りも相談した。およそ桜の開花時期になる。
今日は、来月の一関市博物館行きのスケジュール変更を手配した。インターネットで予約してあった仙台のホテルと帰りの航空便を電話でキャンセルした。表彰式が終わったら福島へ向かい、翌日、翌々日と父の遺品の整理をするつもりだ。
東京高等師範を出た父は、長く教職についていた。戦争中は、中国戦線で中尉として戦ったが、「人を殺したことがあるか」といった質問はむろんのこと、どんなことをしていたのか、まるで聞いたことがない。父については知らないことが多過ぎる。遺品の整理をする中で、父の経歴や人生に関わる品物が出てくるのを楽しみにしている。 増改築を繰り返したために、庭がすっかり狭くなり、父が植えた木々も減っている。残っている中で、幹が太くなった梅は、毎年、実をたくさんつける。今年も、梅のつぼみが膨みだしていたが、それが、ところどころ開花していた。庭の梅が開花する時期に亡くなり、桜が開花する時期に納骨するというのも、植木が好きだった父にふさわしい。
2月23日(水)「疲れが一気に出た初七日の巻」
初七日にあたる日である。
朝から何となく鼻がむず痒かったので、花粉症の薬を飲んだ。左の霰粒腫が完治しないまま、花粉症の飛散がピークを迎えると、両目も痒くなり涙が出るようになるはずだから、これはちょっと恐怖である。左目には霰粒腫の点眼薬、右目には花粉症予防の点眼薬をさして、出社した。
午前中に、4週間ごとに受けている血圧の経過観察をしてもらい、降圧剤と花粉症の薬をもらった。
年が明けてからとにかくがむしゃらに行動してきたが、父が死んでからは、さらに多忙になり、あっという間に初七日になってしまった。しかし、初七日だからと言って、特に何をするわけでもないのだが。
今日は、会社のトップ(現会長で元社長)を職場に迎えて、指導を受ける日だったので、朝から少しバタバタしていた。最近は、開き直りというよりやや達観したところがあり、こういった重要な局面でも比較的冷静に対処できているような気がする。
トップは午後3時に来られ、見送ったのは6時前である。
問題なく終わったし、我々の目的はほぼ達成できたので、充実感が残った。
ミッシェルのハンドルを機嫌よく握りながら家路についたのだが、やけに眠くなる。
夕食後、ソファにちょっと横になったら、そのまま爆睡してしまった。
2月24日(木)「爆睡後・・・の風さん」
起きたのが6時である。就寝した時はソファの足元にシルバー(猫)が寝ていたが、今はいない。うちの2匹の猫は夜になると、家族と同様に2階へ移動し、踊り場のバスケットの中で寝るのである。ソファで爆睡してしまった私は猫より行儀が悪い。
眼を覚ますために、シャワーでも浴びようかと思っていたら、長女が先に風呂場に入ってしまった。現代の若者は早朝に入浴し、まるでタレントのように身だしなみを整える。ひと昔前は朝シャンが流行っていたが、さらにエスカレートしている。私たちの頃は、勉強が最重要で、外見を気にしているヤツは、まるで国賊のように思われたものだ。
しかし、とにかく仕方ない。先に入られてしまったが、私も国賊のように朝からシャワーを浴びて、出社した。玄関先の椿は真っ赤な花を咲かせていて、季節の移ろいを胸を張って主張している。
2月25日(金)「普通救命講習・・・の風さん」
午後、会社で3時間もかけて救急救命法の指導を受けた。消防署の救命士の説明はとても分かりやすく、これで誰でも救命ができそうな気がしたが、いざ実地にやるとなると難しかった。
40人が受講し、女のダミー人形が4体用意された。10人ずつダミー人形相手に救急救命法を練習するのだ。
まず、ダミー人形が倒れている現場に遭遇すると、周囲の安全確認をおこなう。額に左手をのせ、右手で肩を叩いて「大丈夫ですか〜?」と連呼する。ダミー人形だから返事をするわけがない。意識がないのだ。近くにいる人を指差し「意識がありません。救急車を呼んでください」と叫ぶ。右手の指2本でダミーのあごを持ち上げて、気道を確保する。(見て、聞いて、感じて)呼吸をしているかどうか確認する。4、5、・・・10秒カウントする。ダミーだから呼吸はしていない。左手でダミーの鼻をつまみ、マウスツーマウスで息をゆっくり吹き込む。吹き込んだら、ダミーの胸が膨らんでしぼむのを確かめ、また息を吹き込み、胸の上下を確認する。続いて、ダミーが呼吸を再開したかどうか確認する。が、ダミーだから・・・(もういいか)。「息、咳」と言ってから体を起こして、ダミーの体の動きを確認する・・・が、「体動なし」と判断し、心臓マッサージに入る。横隔膜のあたり肋骨の下部を下からなぞってみぞおちの指2本上部に左手甲を押し当てる。右手をその上から指をからませてしっかり当てる。そして、ほぼ垂直に上から3.5〜5センチ程度、毎分100回のペースで15回、声を出しながら押す。「1,2、・・・15」続いて、人工呼吸をし、再度心臓マッサージ、また人工呼吸・・・といったことを4サイクルぐらい繰り返してから、呼吸と体動を確認し、戻ってなければ、また心臓マッサージと人工呼吸を繰り返すのである。
実技試験に合格したので、「普通救命講習修了証」がもらえた。
自分が倒れた場合は、家族にやってもらわなければいけないので、帰宅して、「救急救命法を学んできたから教えてやろう」とワイフと長女に偉そうに話したら、「知ってるよ。前に講習受けたもん」「あたしも」だと!
2月26日(土)「BMIが22.0・・・の風さん」
陽射しは春の近さを感じさせるほど強く、風も春一番のように吹いていた。
うっとうしい左目の霰粒腫。一昨日、まぶたを押したら少々ウミが出て、いくぶん腫れが引いた感じがするので、今後の見通しの確認や薬の補充を目的に、名古屋にある行きつけの眼科に出かけた。すると今日は、いつになく混雑していて、待ち時間だけでも1時間近かった。結論から言うと、霰粒腫はまぶたの表と裏の両方に病根があって、裏はポリープ状になっているがもう末期段階で、本人が苦痛でなければ切除の必要はないとのこと。一方、表の方は、一昨日ウミが出たように、まだ進行中らしく、しかしすぐ切除したからと言って、それでウミを全部出し切れるかどうかまだ何とも言えない。やはり、点眼薬と眼軟膏で様子を見た方がよい、ということになった。
せっかく名古屋まで出てきたので(まるで田舎者のセリフだな)、遅い昼食を摂り、ついでにデパートで本物のフランスパンを買って帰宅した。本物のフランスパンというのは、放置しておくとどんどん硬くなり、やがて腐ったり黴たりすることもなく、石のようになってしまうパンを、私は本物のフランスパンと呼んでいる。
暗くなる前に、町内会の用事を済ませ、それから夕食前に、久しぶりにトレーニングに出かけた。ここのところ超多忙だったので、2週間ぶりである。フルメニューはやめておいた。首の周囲がかちんこちんに凝り固まっていて、そこを入念に動かしたつもりだが、さてその効果は出るだろうか。
いつも低めの値を示すトレーニングルームの血圧計が、今日は、さらに低かった。109−53である。下の53は、これまでの最低記録だろう。あと、肥満度は−0.1%で、体脂肪率は18.9%。注目のBMIは、22.0だった! これなら世界中の保険会社どこでも生命保険に入れるだろう。保険会社の統計では、最も死亡率の低い体型を示すBMI値が22.0だからだ。えへん。
2月27日(日)「あわただしい1日・・・の風さん」
昨日よりも風が弱く、また一段と春に近付いた感じだ。
町内会の役員選挙の開票があり、取材のために駆けつけたが、投票に不手際があり、一部、来週やり直しになってしまった。こういった場合の対応をやっていると、会社の仕事と同じだなあ、と思ってしまう。予定通りにいかなないのが会社の仕事である。
住居地域内にある13ヶ所のゴミ集積場には、掲示板がある。その掲示板そのものの維持管理も私の仕事である。今日は、破損したり傷んでいる4ヶ所の掲示板を新品と交換した。問題がなければ、1ヶ所当たり30分程度で終了するのだが、支柱が鉄のパイプの中で固着してしまい、簡単に抜けないのが2ヶ所あった。結局、3時間半ほども時間を要した。
今日は、住んでいる町と隣町の合併の是非を問う、住民投票の日だった。ついでに、合併した場合の新市名アンケートに回答する日でもあった。
その投票に行ったあと、ワイフとお墓を建立したお寺に行き、戒名や四十九日の法要の相談をした。葬儀でいえば、前半のない、後半部分だけの依頼であり、さぞかし住職さんも面食らったことだろう。それでも、我々の素人質問に丁寧に答えてくださり、費用もリーズナブルな額を提示してくださった。
夕食後は、会社の仕事で埋め尽くされる。やっておかないと、明日、会社で仕事にならないのだ。
あ〜あ、今日も作家は休業である。
2月28日(月)「住民投票の結果・・・の風さん」
日中の最高気温が10度を越える暖かい1日だった。春は確かに近付いている。
昨日の住民投票の結果は、昨夜の11時前に既に出ていた。私の住んでいる町では合併反対が賛成のほぼ3倍。一方の町では、反対が賛成のほぼ2倍だった。明確な反対という結果が出たのである。
以前にも書いたように、問題は複雑というか、非常に判断が難しい。当面の収入(地方交付税の延長)だけを考えれば、合併しなければ大変だ〜となるだろう。しかし、10年後に待っている3割返済を考えれば、この収入の継続はきわめて危険である。それでも、頑張って何とか返済できる目処がついたとして、それでいいのか、ということだ。そもそもの発端は国の超赤字なのである。政治家が悪い、国民に責任はない、と吠えていても解決はしない。政治家を選んだのは国民だし、贅沢に慣れてしまったのは国民である。国の赤字解消に国民として協力する覚悟が本当にあるなら、10年後に3割返済ではなく、3倍にして返済するぐらいでないとダメだ。しかし、そんなことできるとはとても思えない。仮に3割だけ返済できても、7割分だけ国の赤字は減らすことはできないのだ。
合併してもしなくても、政府の脅しに屈服したことに変わりはない。
行政の色々な局面で、爪に灯を点すことを強いられるかもしれないが、前向きに生きていかねばならない。
新市名アンケート結果も、きわめて妥当というか客観的にスッキリする名称がダントツだった。その名称は、合併を議論していた一方の町名で、どちらの町名を新市名にしても相手が納得しないだろうから、公平な名称として南セントレア市にすると主張した合併協議会の了見の狭さが証明されたことになる。
05年3月はここ
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